1945年以前(明治−戦前) 松山市内の劇場MAP


1 勝山館(のちに千代田館−大和倶楽部−第二大衆館と変更)
2 松山館(のちに第一大衆館) 6 世界座(のちに有楽座)
3 キネマ館(のちに演芸館) 7 寿座(のちに国伎座)
4 南亀停(のちに敷島館) 8 松栄館
5 松竹座(のちに弁天座) 9 偕楽館

大正時代の一番町 明治時代の映画館内の風景
有楽座・松山東宝・新栄座の合同広告
銀映劇場チケット 愛媛新聞広告
写真画像:参考文献 上田雅一氏著書「シネマな面々」より

戦前の松山市内劇場事情について
 明治・大正時代の映画館(とういより劇場?)というと、木製の堅い椅子に腰をかけ、開演前には売り子が「おせんにキャラメル・・・」と観客を回ってくる。 開演のベルが鳴ると窓が閉まり暗幕が引かれる。 もちろん音声はないので映像が始まるとバックオーケストラ陣の音楽とともに弁士(語り人)の解説が始まる。 当時普通の月給が月五十円のところ、この活弁達は二百円ほど軽く稼いでいたという事なので、かなり花形の職業だったようだ。 松山市内の各劇場でも有名な活弁者が現れたが、トーキー映画の幕開けとともに出番を失っていく。 チャンバラモノからチャップリン作品などを経由して戦争モノへと映画は移り、市内にあったこれら劇場は第二次世界大戦の中、姿を変えていく事になる。 当時の映画フィルムといえば可燃性で危険な代物であり、映画館の火災も頻繁に起こっていたという事も補足しておきたい。 大正7年松山市駅前の松山館、大正12年の松栄館、そして昭和3年に大街道の有楽座とボヤ騒ぎは多かった。 などと当時を語っても、当然僕は生まれていないのでよく知らないけどねぇ。
 

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